流星

佐藤靖史×流星[THE対談 Vol.04]

早くも大反響!ホスト界のレジェンド「流星」がナビゲーターとなって、カリスマたちと対談する企画。昔を懐かしみながら熱いトークが繰り広げられました。

カリスマホストの帝王学ビジネスとしてのホスト

佐藤靖史(以下、佐藤):『カリスマホストの帝王学』という本を読んで、流星さんに惹かれ会いに行かなきゃって思ったのが、「feiz(フェイズ)」に入店したキッカケでした。僕が29歳の時です。もともと大宮で時給490円のクレープ屋でバイトをしていて、そこからバーテンダーに。実はホストもちょっとだけやったことがあったけど…。その時はいわゆる昼職に務めていたんですけど、本を読んで衝撃を受けて。みんなが成り上がりの話をする中で、流星さんだけはビジネスとしてホストを考えていたんです。当時は神みたいな存在で、同じ源氏名をつけられないくらいのレベルでしたね(笑)。

流星:僕としては「流星」が広まってくれたら嬉しかったんだけどね(笑)。佐藤が入ったのはフェイズ立ち上げから一年くらいのときかな?

佐藤:そうです。一日で最高12人入店しても、一週間でほとんど辞めてしまって。それだけ当時の歌舞伎町は厳しかった。そんなフェイズの噂を聞きつけ、他店からミーティングの様子を見たいって言われてましたよね。

流星:だから佐藤が内勤になってから、お互いの距離がグッと縮まったよね。面接のときのことは申し訳ないけど覚えていないかも(笑)。年齢も周りと比べて高くて、お酒も弱かったね。

佐藤:仕方ないです(笑)。しかも当時の内勤って、ホストとしてどうしようもなくなった人がやるようなポジションでしたから…。そんな中、流星さんはちゃんとしたサービスを提供するために、内勤は絶対に必要だということを掲げていましたね。だから、当時いた内勤が辞めるってなったときに、年齢的にも僕には内勤という道があったし、その選択をしたんです。今でも覚えているんですけど、流星さんに非常階段に呼び出されて「本当にいいの?僕のためにその形でいてくれるの?」って言われて。そのとき、自分の中でスイッチが入りましたね。本当に当時は、内勤の社会的地位って下の下の下でしたからね。18歳の年下の子に色々言われたりもあったけど、新店を出すときも、内勤としてやれるだけのことはやりました。

流星:内勤って実はとても重たい責任のある仕事。キャストのように辞めたいときに辞めるって感じのポジションではないよね。色んなことにチャレンジして欲しくて、まずは秘書的な立場からだったね。その中での広報としてのエネルギーがすごかった。とにかくお店を愛してくれていて、求人や宣伝がとても上手で、佐藤の強みはそこだったね。

佐藤:目の前のことを全部やりましたね。将来を考えるとかではなく、とにかくなんでもNOがない状態に自分を追い込んで。実は当時、広報って一番の穴だったんです。他店では酔っ払ったキャストがやっていることが多くて、僕はよくメディアの方から「助かる」なんて言われましたよ(笑)。当時は媒体も少なくグラビア取るのも大変だったのに、売れっ子たちはなかなか出てくれなくて。そこで、見込みのある新人の子たちをどんどん広告やグラビアに打ち出した。そうするとどんどん売れていくんですよ。そんな中、(真崎)雄馬は最後まで言うこと聞かなかったけど(笑)。変わったのは「騙されたと思って一回だけ僕の言うこと聞いて!あそこの初回の席について!」って言ったお客様が、のちに彼のエースになったとき。そこから信頼関係が築き上げられて、パンツ一丁で広告に出てくれたり、いろんな無茶なこともやってくれるようになった。自分から色々聞いてくれたり、セブ島で将来を語ったりなんかもして(笑)。他のホストたちも「雄馬さん があそこまでになるなら」って感じで、メディア出演などに協力してくれるようになり、組織が変わっていきましたね。

敏腕広報としての働きそして、実業家への道に進む

流星:当時、広報という立場はなくて、現場のキャストが全てをやっていたよね。そう考えると当時のホストは仕事の幅が広かったと思う。広報専門の人はいなかった中で、佐藤が色々やってくれて、雑誌のグラビアとか多くもらえて、フェイズの露出が増えた。佐藤は撮影にも立ち会って、キャストに色々アドバイスしてくれたよね。他店はみんな佐藤を欲しがっていたと思うよ。

佐藤:そんな中、流星さんは佐藤の得意分野をやっていくほうが良いよって背中を押してくれた。他の道もあるって。自分はミスターフェイズっていう気持ちもあって葛藤もあったけど、自分がいないことによって、フェイズに違う何かが生まれるのかなとも思ったり。年齢的な部分もあったし、そこで違う道に進むことを決めました。ビジネス・実業家として流星さんと話していたし、それを僕が形にすれば、流星さんが作った人間の成功例となる。それを自分がやるしかないなって思いましたね。ホストの将来があるということを見せたかったんです。当時は非難もされたし誤解もされた。けど、二人にしかわからないことがあるのにって正直思いましたね。

流星:本当にそうだよね。今回だって、出演したら、仕事の立場上、マイナスに働くこともあるのかなって思っていたんだけど、その中でこうやって来てくれてすごくうれしい気持ちでいっぱい。

佐藤:この時を待っていました。

流星:ここまで大きくなってくれて、本当に自慢です。

佐藤:今の会社(ホストTV)の組織の考え方って、根っこは流星さんの考えで、そこから自分の経験で応用して足しているだけなんです。「なんで流星さんを立てるの?」みたいな雰囲気になるのが嫌だったから今まで言えなかったですけど(笑)。流星さんが教えてくれたからこそ、今がある。流星さんの元から巣立って、成功している人はいっぱいいる。その基盤はやっぱり流星さんなんですよ。

流星:みんな元気で嬉しい。みんなで繋がっていてることが本当に嬉しいね。
10年ぶりに再会を果たした二人。お互いが再起し、再び成功した今こそ、再会に相応しいタイミングだったのかもしれない
10年ぶりに再会を果たした二人。お互いが再起し、再び成功した今こそ、再会に相応しいタイミングだったのかもしれない

当時の経験があって今のホストTVがある

佐藤:学んだのは、すぐに結果を求めるのではなく、やること・求めらることをひとつずつ丁寧にやっていく。その繰り返しの積み重ねを誰かが見てくれている。テレビ局は僕の対応が良かったから、リピートしてくれたりとかありましたね。

流星:佐藤は本当に突き抜けてて、他の子に同じものは求められなかったもん(笑)。

佐藤:それが今に繋がっていますね。民放が撮りたいといっても無理なことがある。そのギリギリのラインを考えてやっています。素材を貸してくれって言われるようにもなりましたよ。

流星:親として、頑張っていることは10分の1しかわからないけど、業界としてナンバーワン!まさかここまで成長するとは。歌舞伎町も明るくなって、見てもらうことも多くなったよね。動画は来るって言われてたけど、当時は大変じゃん!そこを形にしたっていうのがとにかくスゴイよね。

佐藤:でも10年は泣かず飛ばすでしたよ。全然ダメでした。11年目からやっと自分のやりたいことをやれるようになった。今は結果を出しているって言えますね。ホスト業界内だけでなく、業界外に向けてやっているのが他との差別化ですかね。悪いところばかりピックアップされがちだけど、そこはそこでアリで、そうではない他の部分も出していきたかったんです。

流星:生で喋っているのは説得力があるよね。
フェイズ3周年のときの写真。佐藤さんは、この当時の紙焼き写真をスマホで撮影し、そのデータを大切に保存していたという
フェイズ3周年のときの写真。佐藤さんは、この当時の紙焼き写真をスマホで撮影し、そのデータを大切に保存していたという

俯瞰して見たホスト業界この先にあるのは…

流星:今のホスト業界のこと率直にどう思う?

佐藤:とても良い状態ではあるんですけど、危うく感じるところもあります。ふわふわしているっていうか。この状態が続くのが当たり前と思ってはいけない。お金の価値をわかってやっていかないといけないなと感じます。

流星:撮っている佐藤だから感じること?ふわふわってどんな感じ?

佐藤:昔はホストに最低限の芯があった。今は、周りがなんでも至れり尽くせりで、芯がなくなって、やってもらって当たり前みたいな。売り上げが落ちた時に移籍・辞めるっていう子が増えましたよね。野球で例えると、球団悪いから移籍するわ!みたいな。そんなことを選手がみんなやっていたら、野球自体の人気は落ちていくと思うんです。今の良い状態のその先を見据えていかないと、業界自体も残らないと思います。

流星:俯瞰しているからこそ見えることだね。

佐藤:その点キャバは、そこはしっかりしている。ジーパンの子なんていないですよね?

流星:佐藤の話を聞いて、自分のやろうとしていることに自信がついた。ありがとう!時代に合わせることも大事だし、人生で成長しなくてはいけない。けど、芯はブレずに変えちゃいけないって思った。対応の仕方を変えれば良いってことだよね。自分の役割を見つけられた、佐藤のおかげだよ。とにかくみんなには、「色々チャレンジして、その中で結果の出たものを伸ばしていけば良い」と、これからも伝えていきたいな。
佐藤 靖史(HOST.TV.COM)
言わずと知れた業界No.1のホスト動画サイト「HOST-TV.COM」の代表取締役。レギュラー番組だけでその数は4564件(2019年10月現在)。王道動画をはじめ、様々な企画が人気を集めスマッシュヒットを連発!流星さんの「feiz」では秘書として活躍し、敏腕広報として名を馳せた。